山形県医師会報誌 編集後記
三原一郎
2004年6月
三原一郎
2004年6月
武田憲夫先生の筆硯「もう一つの医療」には、考えさせられた。本来、臓器移植と脳死とは、次元の異なる議論のはずなのに、脳死判定をめぐってのギクシャクした世論が、移植医療へのブレーキになっているとは知らなかった。ドナーを一日千秋の思いで待っている人にとって、極めて残念なことであろう。脳死を人の死とするか、という議論も大事かもしれないが、一方で、臓器移植で救われる「もう一つの医療」があることを、われわれ医療人が率先して広く伝えていく必要性を痛感した。死の定義へのこだわりより、病む人、苦しむ人へ、手を差し延べることがより優先される社会であって欲しいと考えるのは編者だけではないであろう。他人への慈愛で成り立つ移植医療という「もう一つの医療」が、さらに推進することを心から願いたい。
もう一人の武田先生の寄稿「トリアージ」も、面白い視点で楽しませて頂いた。トリアージ、災害時における治療の優先順位の選別というイメージであるが、戦争や飢餓など極限の状況においては、それは、すなわち子供、高齢者、重傷者など弱者の切り捨てに他ならない。国あるいは組織を存続させるためには、強を残し、弱が切り捨てられるのは、自然の道理かもしれない。しかし、戦時下でも飢餓でもない日本で、これと同じ論理が公然と肯定されようとしている。皆保険の崩壊である。新聞は、医療費の伸びが日本を滅ぼすと書く。日本国を救うためには、医療費の抑制は必至であるというキャンペーンを国民が鵜呑みにするような事態になれば、老人切捨ての時代も、絵空事とはいえないのではないか。たとえば、80歳以上の高齢者は、保険給付なし、長生きしたければ自己責任で、という時代も案外あり得るかも知れない。金の切れ目が命の切れ目、一種のトリアージ時代の到来である。